【海斗|2000/12/23 Sat|Snow|病室】
海斗が小学四年生の冬のことだ。
2000年12月23日。天皇誕生日。土曜日。
病院の廊下は、消毒液の匂いがした。海斗はその匂いが嫌いだった。鼻の奥がツンとする。母親と二人で歩く廊下の先に、祖父の病室がある。四人部屋の窓際のベッド。
窓から雪が見えた。今年の初雪だ。粒が細かくて、落ちるのが遅い。風に煽られて、上に戻っていく雪もある。
「海斗、来たのか」
ベッドの上で祖父が笑った。体は痩せていた。夏に見たときよりもずっと。パジャマの襟元から鎖骨が浮いている。頬がこけて、目だけが大きく見える。でも、その目が妙に明るかった。テレビで見たことがある。人は死ぬ前に、少しだけ元気になることがあるらしい。「中治り」と言うらしい。海斗はその言葉を知っていた。知っていたから、祖父の明るさが怖かった。
「今日はな、いいもの見せてやる」
祖父は枕元のサイドテーブルから、茶色い表紙のノートを取り出した。角が擦れて白くなっている。表紙に何も書いていない。

「これ、なに?」
「やりたいことリスト」
祖父がノートを開いた。万年筆で書かれた文字。祖父の字は角張っていて、海斗の字とは全然違った。
☑ 妻と、若い頃のデート場所をもう一度回る
☑ 海斗と釣りに行く
☑ 友人たちに、一人ずつ会って、お礼を言う
☑ 高尾山に登る
☑ 中学時代の担任の先生に手紙を書く
□ 桜が咲くのを見る
チェックマークが五つ。最後の一つだけ、空欄だった。
「余命半年って言われてな」
祖父は窓の外の雪を見た。声は穏やかだった。穏やかすぎて、十歳の海斗にはその穏やかさの意味がわからなかった。穏やかでいられることが異常なのだと、後になって気づいた。
「最初は怖かったよ。毎晩泣いた。風呂に入って、湯船に顔をつけて、声が漏れないようにして泣いた。おばあちゃんに聞かれたくなかったからな」
海斗は黙って聞いていた。祖父が泣くという情報を、頭の中で処理しようとしていた。祖父は泣かない人だと思っていた。海斗が転んで膝を擦りむいたとき、「男は泣くな」と言った人だ。その人が、風呂場で泣いた。
「でもな、ある日気づいたんだ」
祖父が海斗を見た。
「半年『も』ある、って」
窓の外で雪が降り続けている。粒が大きくなってきた。
「明日、突然死んでたら、何も言えなかった。何もできなかった。でも、俺には半年ある。半年あれば、会いたい人に会える。言いたいことが言える。やり残したことを、一つずつ片付けられる」
祖父はノートのチェックマークを指でなぞった。
「妻とは、鎌倉に行った。四十年前に初めてデートした場所だ。小町通りの喫茶店。まだあったよ。マスターは代替わりしてたけどな。同じテーブルに座って、同じコーヒーを頼んだ。おばあちゃん、泣いてた。俺も泣いた」
祖父が笑った。少し照れたように。
「海斗とは、先月釣りに行っただろう。あれも、リストの一つだった」
海斗は驚いた。あの釣りの日。十一月の寒い日曜日。祖父と二人で、港の堤防に座って、五時間も釣りをした。何も釣れなかった。でも祖父は楽しそうだった。帰りにコンビニで肉まんを買ってくれた。あれが、リストの一つだったのか。
「友達には、一人ずつ会った。全部で十二人。遠い人には手紙を書いた。全員に、ありがとうって言った。恥ずかしかったよ。男同士で面と向かって『ありがとう』なんて、言ったことなかったからな」

祖父がノートを閉じた。
「残りは一つ。桜が咲くのを見ること。春まで持つかわからないけどな」
祖父は海斗の手を握った。骨と皮だけの手だった。夏に握ったときはまだ肉がついていた。今は、骨の形がわかる。指の関節、手首の骨。皮膚の下に骨が透けている。
でも、力はあった。海斗の手を握る力は、しっかりしていた。
「海斗、いいか。一つだけ覚えておけ」
祖父の目が、海斗をまっすぐ見た。
「後悔だけは、するなよ」
海斗は祖父の目を見返した。
「大切な人には、ちゃんと言葉を伝えろ。明日できるから、って先延ばしにするな。明日が来る保証なんて、どこにもないんだ」
海斗は頷いた。
でもその時はまだ、言葉の重さを知らなかった。十歳の海斗にとって、「明日が来ない」というのは、テレビの中の話だった。ノストラダムスの大予言と同じカテゴリーだった。現実のことだとは思えなかった。
ただ、祖父の手がどれだけ細かったか。骨の形がどれだけはっきり浮いていたか。それだけを覚えている。
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