第一部 忘れられない記号 一 さよならを言えなかった人(後編)

 葬儀には行かなかった。

 「ご家族だけで」と先生が言ったから。それを理由にした。本当は、行けなかった。行く勇気がなかった。

 大輝も行かなかった。美咲も。クラスメイトのほとんどが行かなかった。

 田村先生だけが行った。

 夏休みが続いた。

 八月になった。蝉が鳴き続けた。九月になった。二学期が始まった。

 教室の座席は入れ替わっていた。陽菜の席だった場所に、別の生徒が座っていた。窓際の席。新しい生徒は男子だった。サッカー部の。席に座って、すぐに隣の奴と喋り始めた。窓の外なんか見なかった。

 最初の一週間は、みんな少し静かだった。でも二週間目には、もとに戻った。休み時間の騒がしさ。廊下を走る音。笑い声。体育祭の準備が始まって、クラスTシャツのデザインを決める話し合いで盛り上がった。

 誰も、陽菜の名前を口にしなかった。

 意図的に避けたのではない。自然に、話題に上らなくなった。最初の数日は「桜井さん、かわいそうだったね」「信じられないよね」と囁き合っていた。一週間経つと、「ね、今度の日曜の映画、行かない?」に変わった。

 海斗も口にしなかった。

 大輝と翔太と三人で、いつものようにサッカーをした。ゲームをした。夕飯の時間まで遊んだ。走って帰った。日常が、陽菜のいない形に修復されていった。穴が開いたまま、その穴の周りに新しい生活が積み上がった。穴は塞がらなかった。でも、見えなくなった。

 十月の文化祭で、三年二組は劇をやった。全員参加。一人足りないことに、誰も触れなかった。配役表には、もともと陽菜の名前はなかった。陽菜は目立たない子だったから、何の役にも割り当てられていなかった。いなくても、劇は成立した。

 それが一番残酷なことだった。

 いなくても、成立する。

 三十二人の教室が三十一人になっても、世界は何も変わらない。先生の声は同じ大きさで、チャイムは同じ時刻に鳴り、給食は同じ分量が配られる。一人分の欠損は、集団に吸収される。

 卒業式。

 卒業証書の授与。名前が一人ずつ呼ばれる。「相沢海斗」「伊藤翔太」……。アイウエオ順。「さ」のところで、「佐藤美咲」が呼ばれた後、「桜井陽菜」は呼ばれなかった。名簿から消えていたのか、先生が飛ばしたのか、海斗にはわからなかった。

 卒業アルバムには載っている。集合写真の前列右端に。カメラを見ていない顔で。

 でも、式の中では、名前は一度も呼ばれなかった。

【海斗|2030/07/07 Sun|Rain|アパート】

 それから二十年。

 海斗は、一度も陽菜の墓の前に立っていない。

 毎年7月22日には墓地を訪れる。市営墓地の正門を入って、砂利道を左に折れて、三番目の区画。大きな欅の木がある。その木の陰に立つと、桜井家の墓石が見える。白い御影石。毎年、この日には花が供えてある。白い菊。たぶん母親が供えているのだろう。

 海斗はそれを確認する。花があることを確認する。それだけだ。それ以上近づくと、膝が言うことを聞かなくなる。足が止まる。心臓が鳴って、手が冷たくなって、息が浅くなる。パニック発作に似ている。最初の数年は吐いた。欅の木の根元で。

 同窓会の案内は、すべて未開封のまま受信ボックスに眠っている。2015年、2020年、2025年、2028年。四通。件名だけ見える。「同窓会のお知らせ」差出人は清水大輝。毎回、大輝が幹事をやっている。

 開かない。

 「桜井さん、覚えてる?」──そう聞かれることが怖い。覚えていると言えば嘘になる。陽菜の声も、笑い方も、歩き方も、もう思い出せない。覚えていないと言えば、それは陽菜を二度殺すことだ。だから、どちらも選べない。

 二十年かけて、海斗の中で、陽菜は顔を失った。

 声を思い出そうとする。出てこない。高かったか低かったか、それすらわからない。音域の幅すら不明だ。

 笑い方を思い出そうとする。出てこない。歯を見せて笑ったか、口を閉じて笑ったか。

 背の高さ。わからない。海斗より低かったことは確かだが、どれくらい低かったか。十センチか。十五センチか。

 出てくるのは、属性だけだ。「クラスの大人しい子」「図書室で本を読んでいた子」「傘の持ち手に俺の名前を書いた子」「十五歳で死んだ子」「俺が傷つけた子」

 名前ではない。罪状だ。

 海斗の部屋は、一DKのアパートの二階。築30年。壁が薄い。隣の部屋の目覚まし時計の音が聞こえる。家賃は5万8千円。プラネタリウムの解説員の給料で、ぎりぎり暮らせる。

 本棚には天文学の本が並んでいる。仕事用。その隣に小説が数冊。読みかけのまま放置されているものが多い。海斗は本を最後まで読むのが苦手だ。途中で飽きるのではない。途中で、物語の中の誰かが誰かを傷つける場面が出てくると、ページを閉じてしまう。

 窓際に立った。雨粒が窓ガラスをつたっている。街灯の光がにじんで見える。橙色の光が、雨粒の中で歪んでいる。

 胸の奥で何かが軋んだ。条件反射。雨を見ると、体が思い出す。頭が忘れようとしていることを、体が覚えている。カレーの匂い。透明な傘。古い本の手触り。体にはそれぞれのスイッチがあって、不意に入る。

 海斗は窓から離れた。冷蔵庫からビールを取り出して、プルタブを開けた。泡が指にかかった。一口飲む。苦い。準備室のコーヒーと同じ苦さだ。

 テレビをつけた。ニュース番組。天気予報。「明日も関東地方は雨が続くでしょう」アナウンサーの声が、部屋に流れた。海斗はソファに座って、ビールを飲みながら、天気予報を見た。

 明日も雨。

 明日も、七月。

 あと十五日で、7月22日が来る。

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
  • URLをコピーしました!

コメント

コメントする

目次