第一部 忘れられない記号 一 さよならを言えなかった人(前編)

【海斗|2010/07/23 Fri|Sunny|自宅】

 海斗が陽菜の死を知ったのは、陽菜が死んだ翌日の朝だった。

 2010年7月23日、金曜日。夏休みの三日目。

 枕元で携帯電話が震えた。ガラケーのバイブレーション音。布団の中で片目を開ける。時計は7時42分。夏休みなのに早い、と思った。

 大輝からのメールだった。件名が「緊急」になっている。大輝が件名をつけるのは珍しい。いつもは件名なしで、本文に「ひまか?」とだけ書いてくる。

 海斗はメールを開いた。

 『相沢、大変だ。桜井が、昨日、事故で死んだ』

 読んだ。意味がわからなかった。

 もう一度読んだ。

 「桜井」が「事故」で「死んだ」

 三つの単語が、文法的には繋がっている。でも、意味として繋がらない。桜井が。事故で。死んだ。

 携帯電話が指の間から滑って、畳の上に落ちた。プラスチックが畳を叩く乾いた音がした。

 海斗は天井を見つめた。

 天井は白かった。蛍光灯のカバーに、去年の夏に入り込んだ蛾の影がうっすら見えた。あれ、取らなきゃな、と思った。ずっと思っていて、ずっと取っていない。

 蝉が鳴いていた。窓の外で、ミンミンゼミが一匹、全力で鳴いていた。

 夏の朝の、普通の音だった。

 海斗は大輝に電話をかけた。三コールで繋がった。

 「もしもし」

 「大輝、今のメール、本当か?」

 「ああ」

 大輝の声が低かった。いつもの大輝の声ではなかった。

 「桜井さん、昨日の午後、駅前の交差点で車に轢かれた。信号無視の車だったらしい」

 「……」

 「今日、学校で先生から説明があるって」

 「わかった」

 海斗は電話を切った。

 その場に座ったまま、動けなかった。

 十日前のことを思い出した。

 雨の昇降口。桜井さんが傘を差し出した。持ち手に「相沢くん」と書いてあった。海斗はそれを見て、頭が真っ白になって、「ごめん、俺、もう友達と帰るから」と言って、走って逃げた。嘘だった。友達はもう帰っていた。

 あれが、最後だった。

 あれが。

 最後。

 学校。朝のホームルーム。

 教室はいつもより静かだった。いつもなら誰かが廊下で騒いでいる。今日は、誰も騒いでいない。でも泣いている人もいない。静かなのは、まだ実感がないからだ。

 田村先生が教壇に立った。四十代の男性教師。いつもは声が大きい。今日は違った。

 「みんな、聞いてください」

 先生の声が震えていた。海斗は初めて、大人の声が震えるのを聞いた。

 「昨日、桜井陽菜さんが、交通事故で亡くなりました」

 教室が、音を失った。

 蝉の声だけが窓から入ってくる。

 「昨日の午後3時頃、駅前の交差点で、信号無視の車に轢かれました。病院に運ばれましたが、亡くなりました」

 誰かが小さく息を呑んだ。それ以外は、何の音もしなかった。

 「葬儀は明後日です。ただ、ご家族から『家族だけで行いたい』とのことですので……」

 先生の声が途切れた。一度、天井を見上げた。それから、もう一度話し始めた。

 「桜井さんは、優しい生徒でした」

 海斗は机に突っ伏した。顔を上げられなかった。

 優しい生徒。

 先生の言葉が、妙に耳に残った。優しい。それは、陽菜を表す言葉として正しいのだろうか。海斗は、陽菜が優しかったのかどうかすら、わからなかった。図書室で一人で本を読んでいる姿しか知らない。声が小さくて、授業の発表のとき聞こえなかった。パンを小さくちぎって食べていた。傘の持ち手に名前を書いていた。それだけだ。

 優しいかどうかなんて、わからない。

 何もわからないまま、死んだ。

 放課後。

 海斗は一人で昇降口にいた。

 十日前、桜井さんはここに立っていた。傘を握って。

 コンクリートの床。下駄箱の列。靴のゴムの匂い。外から吹き込む風が、今日は乾いている。晴れているから。十日前は、ここに雨が吹き込んでいた。

 俺のせいだ。

 頭ではわかっている。信号無視の車だった。海斗が逃げたこととは何の関係もない。陽菜が事故に遭ったのは7月22日で、昇降口の出来事は7月13日で、九日間の隔たりがある。因果関係はない。

 でも、頭と体は別だ。体が、繋げてしまう。

 「海斗」

 背後から声がした。大輝だった。

 「大丈夫か」

 海斗は答えなかった。

 「俺のせいだ」

 声が震えた。

 「俺が、桜井さんを殺したんだ」

 「何言ってんだよ」

 大輝は海斗の肩を掴んだ。大輝の手は大きかった。野球部で鍛えた、ごつい手。

 「お前は何もしてない。信号無視の車だ。事故だ」

 「いや、俺は……」

 海斗が顔を上げた。涙でぐしゃぐしゃだった。

 「俺、桜井さんの傘、断ったんだ。十日前、ここで。逃げたんだ。それが最後だったんだ」

 大輝は黙った。

 あの日の光景を思い出していた。部活を早めに切り上げて昇降口に向かう途中、窓から見えた。海斗がずぶ濡れで走り去っていった。そして、昇降口に一人で座り込んでいる女子生徒。桜井だった。泣いていた。

 大輝は声をかけなかった。

 「お前のせいじゃない」

 大輝はそう言った。海斗の肩を掴んだまま。

 「事故だ。誰のせいでもない」

 大輝は自分にも言い聞かせていた。俺のせいでもない。あの日、桜井に声をかけなかったことと、事故は関係ない。信号無視の車だ。偶然だ。誰のせいでもない。

 でも、胸の奥で、小さな棘が刺さったまま動かなかった。

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